【輪違屋編①】日本最古の廓、京・島原へ
日本で最古の廓(くるわ)。
その京・島原にたった一軒だけ、現在も営業を続けているお茶屋があります。
それが浅田次郎の小説にも描かれた「輪違屋」―。

今年2014年夏に、島原の「輪違屋」さんが期間限定で公開とのこと。
これは行かなくっちゃいけません。
同じ島原内にある「角屋」さんと合わせて、8月20日に行ってまいりました。
キャンペーンの詳細はこちら→京の夏の旅
JR丹波口から歩いて5分程度。私は逆から入ってしまいましたが、まずは島原の大門をくぐりましょう。

かつては隆盛を極めた島原。大門が今もその名残をとどめています。
この大門は島原が出来た時は廓の東北の角にありましたが、明和3年に現在の位置に。
何度か火災で焼失し、今の大門は慶応3年に建造されたものだそうです。

大門の横には「出口の柳」が。さらに遊女がお客さんを見送る「さらば垣」が復元されています。
お江戸の吉原にあった「見返り柳」は、この島原の「出口の柳」を模したのですね。
「輪違屋」といえば、浅田次郎の小説「輪違屋糸里」が有名です。
実際に糸里という名の女性がいたかどうかはわからないようですが、
小説の中で彼女が太夫になったときの名、「桜木太夫」という名前の大夫は実在したようです。
彼女は伊藤博文に寵愛されていましたが、伊藤が明治46年にハルピンで暗殺されると嘆き悲しみ
後に出家をしたのだとか…。
創業は元禄年間(1688~1704年)。当時の名は「養花楼」。
「花」は太夫さんたちのことで、彼女たちを育てる、養う、という意味だとか。
明治初期までは彼女たちをここで居住させながら、芸事の稽古などをさせる、
いわば芸能プロダクションというような「置屋」さんでした。
(お客さんが大夫を呼んで宴会をするところは「揚屋」。
後ほどご紹介する「角屋」さんがそれにあたります)
ですから小部屋が多く、庭もこぢんまりとしています。
明治5年から置屋とお茶屋(揚屋)を始められたそうで、
現在はさらに1階の一角でバーを経営されているとのことですが、
残念ながらこちらも「一見さん」お断りだそうです。
以前は3階建てだったそうですが昭和36年の第二室戸台風で屋根が吹き飛ばされてしまい、現在の2階建てに。
また別棟に、太夫さんや芸妓さん、仲居さんたちが住み込んでいる部屋がたくさんあったそうです。
現在は1階に座敷が一室、2階に座敷が二室、そして太夫の間(大夫さんが暮らした部屋)が一室。

1階のお座敷は書院造。お茶屋になる前まではご当主のご家族の居間として使われていたそう。
襖には歴代の太夫さんたちが書いた恋文の下書きが貼ってあります。

一体なんと書いてあるのか、ガイドの方も分からないと仰っておられました。
しかしお客さん宛ですから「早くお逢いしたい」というような内容なのでしょう。
恋文、というよりも営業用のビジネスレター…、いやそんなことを言うと風情も何もなくなってしまいますね。
さて、こちらは明治初期までは置屋さんであったので、
それまでお客さんが直接「輪違屋」に来ることはなかったわけですが、
あちこちのお座敷に呼ばれた太夫さんたちが、当時のお客さんたちから書いてもらったという書が残されています。
ほんとうはもっとたくさんあったそうなのですが、残念ながら邪魔になるからとほとんど処分してしまったそう。
なんて勿体ない!幕末の志士、あんな人、こんな人の貴重な書があったんでしょうね~~。うう。
その中でも残っていたのが、この近藤勇の書です。

書を屏風仕立てにし直したものですが、これまた一体どういう意味か分からず…。
戻ってから調べてみましたら、こちらのブログを発見しましたので、
参考、引用させていただきます。
→「幕末散歩」
こちらによると、向かって右側はどうやら吉原と島原との違いにカルチャーショックを受けたという内容のよう。
「婦人色を好む、年季が明け16年経ち白髪が混ざっているのにここで働いている」という意味だとか。
吉原より島原のほうが折檻などもなく働きやすかったらしいです。
近藤勇ほか、江戸から来た浪士たちの面々は、さぞかし吉原との違いに面くらったことでしょう。
そして左側は、「十文字に交差した街道で内八文字で行く太夫道中を見て、
きらびやかに着飾っている様をあたかも男が鎧を着て戦い行くのと同じように、
これから戦いに行くのだな」というような意味だそうで。
※内八文字は島原の太夫の歩き方。吉原は外八文字。
一筆書いてほしいと美しい太夫さんにせがまれて、
よーしよし、と精いっぱい太夫を褒め称える漢詩を書く局長。
微笑ましいですね。
激務の中も毎夜、書の練習を怠らなかったという近藤勇ですが、さすがの筆跡です。
「浪士」と署名してあるので、会津藩のお抱えになる以前のものでしょうか。
まだ三十歳くらいでしょう。
刀を持てば裂帛(れっぱく)の気合いだったようですが、書には力強いながらもどこか優しさが感じられます。

写真には映っていないのですが、庭にはキリシタンの模様(十字か?)を忍ばせた灯篭などがありました。
当時はご禁制でしたので、密やかなお上への反発の意味でもあったのでしょうか…。
…とりあえずすっかり長くなりましたので、2階の様子はまた次回。
その京・島原にたった一軒だけ、現在も営業を続けているお茶屋があります。
それが浅田次郎の小説にも描かれた「輪違屋」―。

今年2014年夏に、島原の「輪違屋」さんが期間限定で公開とのこと。
これは行かなくっちゃいけません。
同じ島原内にある「角屋」さんと合わせて、8月20日に行ってまいりました。
キャンペーンの詳細はこちら→京の夏の旅
JR丹波口から歩いて5分程度。私は逆から入ってしまいましたが、まずは島原の大門をくぐりましょう。

かつては隆盛を極めた島原。大門が今もその名残をとどめています。
この大門は島原が出来た時は廓の東北の角にありましたが、明和3年に現在の位置に。
何度か火災で焼失し、今の大門は慶応3年に建造されたものだそうです。

大門の横には「出口の柳」が。さらに遊女がお客さんを見送る「さらば垣」が復元されています。
お江戸の吉原にあった「見返り柳」は、この島原の「出口の柳」を模したのですね。
「輪違屋」といえば、浅田次郎の小説「輪違屋糸里」が有名です。
実際に糸里という名の女性がいたかどうかはわからないようですが、
小説の中で彼女が太夫になったときの名、「桜木太夫」という名前の大夫は実在したようです。
彼女は伊藤博文に寵愛されていましたが、伊藤が明治46年にハルピンで暗殺されると嘆き悲しみ
後に出家をしたのだとか…。
創業は元禄年間(1688~1704年)。当時の名は「養花楼」。
「花」は太夫さんたちのことで、彼女たちを育てる、養う、という意味だとか。
明治初期までは彼女たちをここで居住させながら、芸事の稽古などをさせる、
いわば芸能プロダクションというような「置屋」さんでした。
(お客さんが大夫を呼んで宴会をするところは「揚屋」。
後ほどご紹介する「角屋」さんがそれにあたります)
ですから小部屋が多く、庭もこぢんまりとしています。
明治5年から置屋とお茶屋(揚屋)を始められたそうで、
現在はさらに1階の一角でバーを経営されているとのことですが、
残念ながらこちらも「一見さん」お断りだそうです。
以前は3階建てだったそうですが昭和36年の第二室戸台風で屋根が吹き飛ばされてしまい、現在の2階建てに。
また別棟に、太夫さんや芸妓さん、仲居さんたちが住み込んでいる部屋がたくさんあったそうです。
現在は1階に座敷が一室、2階に座敷が二室、そして太夫の間(大夫さんが暮らした部屋)が一室。

1階のお座敷は書院造。お茶屋になる前まではご当主のご家族の居間として使われていたそう。
襖には歴代の太夫さんたちが書いた恋文の下書きが貼ってあります。

一体なんと書いてあるのか、ガイドの方も分からないと仰っておられました。
しかしお客さん宛ですから「早くお逢いしたい」というような内容なのでしょう。
恋文、というよりも営業用のビジネスレター…、いやそんなことを言うと風情も何もなくなってしまいますね。
さて、こちらは明治初期までは置屋さんであったので、
それまでお客さんが直接「輪違屋」に来ることはなかったわけですが、
あちこちのお座敷に呼ばれた太夫さんたちが、当時のお客さんたちから書いてもらったという書が残されています。
ほんとうはもっとたくさんあったそうなのですが、残念ながら邪魔になるからとほとんど処分してしまったそう。
なんて勿体ない!幕末の志士、あんな人、こんな人の貴重な書があったんでしょうね~~。うう。
その中でも残っていたのが、この近藤勇の書です。

書を屏風仕立てにし直したものですが、これまた一体どういう意味か分からず…。
戻ってから調べてみましたら、こちらのブログを発見しましたので、
参考、引用させていただきます。
→「幕末散歩」
こちらによると、向かって右側はどうやら吉原と島原との違いにカルチャーショックを受けたという内容のよう。
「婦人色を好む、年季が明け16年経ち白髪が混ざっているのにここで働いている」という意味だとか。
吉原より島原のほうが折檻などもなく働きやすかったらしいです。
近藤勇ほか、江戸から来た浪士たちの面々は、さぞかし吉原との違いに面くらったことでしょう。
そして左側は、「十文字に交差した街道で内八文字で行く太夫道中を見て、
きらびやかに着飾っている様をあたかも男が鎧を着て戦い行くのと同じように、
これから戦いに行くのだな」というような意味だそうで。
※内八文字は島原の太夫の歩き方。吉原は外八文字。
一筆書いてほしいと美しい太夫さんにせがまれて、
よーしよし、と精いっぱい太夫を褒め称える漢詩を書く局長。
微笑ましいですね。
激務の中も毎夜、書の練習を怠らなかったという近藤勇ですが、さすがの筆跡です。
「浪士」と署名してあるので、会津藩のお抱えになる以前のものでしょうか。
まだ三十歳くらいでしょう。
刀を持てば裂帛(れっぱく)の気合いだったようですが、書には力強いながらもどこか優しさが感じられます。

写真には映っていないのですが、庭にはキリシタンの模様(十字か?)を忍ばせた灯篭などがありました。
当時はご禁制でしたので、密やかなお上への反発の意味でもあったのでしょうか…。
…とりあえずすっかり長くなりましたので、2階の様子はまた次回。
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