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2013/06/13

扉の向こうの江戸へ②~明治大学博物館、国立科学博物館ほか~

前回は江戸東京博物館、深川江戸資料館のことを書きましたが、
今回はもう少しマニアックな博物館や展覧会を主に纏めてみます。

明治大学博物館(刑事部門)

商品部門、考古学部門と他にもある展示部門の中で、異色なのがこちらの刑事部門。
主に江戸時代の刑罰について、復元資料などを通し学ぶ事ができます。

ここにもスタッフの方がいらっしゃるのでガイドをお願いしました。
(常駐ではなく曜日によってなので、行かれる際は事前に確認されることをおすすめします)

丁寧に説明していただいたので、この部門だけで一時間以上かかっていた気がします(笑)

まずは高札やら当時の法律、武家諸法度などの展示から。
江戸初期の武家諸法度の内容は

「文武『弓道』をたしなむように」

だったのに、やがて太平の世になるとそれが

「文武『忠孝』に励むように」

と変わっています。
戦国時代なら、部下にガンガンに武芸の腕を磨かせることが大事だったわけですが、
戦のない時代には、主従の縛りはメンタル面へ移った、ということですね。

そして捕物のコーナー。
面白いのは捕縛する縄に、中国の五行思想から来る色が付けられており、
四季によって使う色が決まっていたということ。
玄武=黒(冬)朱雀=赤(夏)青龍=青(春)、白虎(秋)、黄龍=黄(季節の変わり目)

といっても実際には北町奉行所が白、南町奉行所が紺色と、
奉行所によって使い分けていたそうです。
あくまで正式には、五色の色分けがあったということで。

犯人を捕縛する道具も展示されています。
突棒(つくぼう)、刺又(さすまた)、袖搦(そでがらみ)の
三つが捕物三道具と言われていたとか。
基本的に生け捕りにしなければならなかったので
武器は使えません。
犯人の方は武器を持って暴れたりもするわけですから
捕らえる方も命懸け。
なのでなるべく犯人に近寄らなくて済むように、
長い棒状の物で相手の動きを封じる道具が用いられたんでしょう。

捕まった犯人は小伝馬町の牢屋敷へ入れられます。
この牢の中には容疑者が入れられているわけです。
現在の刑務所と違うのは、終身刑がないことだと聞きました。
捕縛された犯人は拷問などで自供させられ、その後沙汰が出れば、
即日に刑が執行されるのです。
(遠島などの刑の場合は、船の出航の関係で
暫く牢に留め置かれることもあったりと例外はあったようですが)
つまり打ち首と決まれば、その日の内に首が斬られると。

さてその拷問ですが・・・。
①笞(むち)打ち
②海老責め
③石抱き
④釣るし責め
というような種類があったようです。
(正確には①~③は「牢問い」、④が拷問と呼ばれていたようです)

「むちうち」と聞くと乗馬鞭のような長い紐状のものを思い浮かべますが
そうではなくてガッシリした棒です。
へえーと思ったのは、笞打ちの際には医師が立ち会っていたということ。
血が流れた後、一応手当はしてくれたようです。
でも簡易なものであったそうですが・・・。
多分出血死してしまわない程度のものだったんでしょうね。

いずれも聞いただけで「いたたたたっ!」
ぶるってしまいます。
ほとんどの囚人が、こんな拷問をされると聞いただけで
白状してしまったことでしょう。
もし無実であっても・・・。

恐ろしいのは拷問だけでなく、処刑の仕方もです。
磔となれば、大の字(女性は足は開かない)に架けられて、
何十回も両脇から槍で刺されまくります。
(明治時代初期の磔刑の写真が展示されていますが、
白黒ながらぞっとしてしまいました・・・)

放火犯ならば火あぶり。生きながら焼かれます。

恐ろしや・・・

image_20130613135402.jpg
(左)放火犯が処せられる火炙りの台 
(右上)三角形の板を並べた算盤板の上に座らせられ、
一枚50キロもある石を膝に乗せられていく「石抱き」の牢問い。
なかなか白状しない時は揺すられたりもしたそう。
(右下)西洋の拷問具、ギロチンも何点かありました。
これは有名な「鉄の処女」。博物館のグッズコーナーではキャラクター化してました(笑)


他には大岡越前、長谷川平蔵の署名のある
判例集も展示されていましたよ。
テレビの時代劇がぐっとリアルになります。


国立科学博物館「江戸人展」
※展覧会「江戸人展」は2013年6月16日までで終了。

上野の科学博物館。
ここが江戸時代の人骨をたくさん保管している、というのは
テレビで見て知っていたのですが、
それが今回展示されると聞いて、どうしても見ておきたいと
思ったのが今回の旅行のきっかけでもありました。

image_20130613135400.jpg
入ってすぐの場所に、このようにずらりと頭蓋骨が並んでいます。


東京の地下にはたくさん人骨が埋まっていて
どこを掘っても大抵出てくるんだそうです。
これは主に、お寺があちこち移動したためと言われています。
移動の度にお墓を掘り起こして骨も移動させるわけですが
取りこぼしも多かったためだとか。

骨はたくさんの事を教えてくれます。
以前徳川家のお墓が発掘された時も、その遺骨から
生活習慣や養生法、死因など詳しい情報が分かりました。
(「徳川家将軍十五代のカルテ」、「骨は語る 徳川将軍・大名家の人々」)

基本的に将軍や大名などは、現代的な細い顔をしていたようです。
食事が柔らかいものなので顎を使う必要がないからでしょうね。
それに比べて庶民はえらの張った四角い顔が多かったようです。

また江戸時代の人々は全体的に、日本の歴史上最も体が小さかったとのこと。
今回の展示でも

「男たちは一般に背が低い。下層の労働者階級はがっしりと逞しい体格を
しているが、力仕事をして筋肉を発達させることのない上層階級の男はやせている」


「(日本女性は)背は低いが体格はよく、首から肩、胸にかけての部分は
彫刻家のモデルになれるほどだ。また手足の形が良く、びっくりするほど小さい」


というエドゥアルド・スエンソンの『江戸幕末滞在記』からの文章を引いて
駕籠かきと思われる男性の骨や、帯できつく締めていたため胸のあたりの骨が変形した
女性の骨などが展示されていました。

労咳や梅毒といった病気で亡くなった人の骨もあれば、
死後試し切りをされたと思われる、背骨がいくつも寸断された骨もありました。
(罪人は処刑後に、刀の試し切りに用いられることがあったようです)

労咳と言えば沖田総司や高杉晋作が浮かびます。
結核菌は骨にまで感染することがあるそうで、部分的に溶けてしまうんだそうです。
どれだけ苦しく痛かったことか・・・。

また芹沢鴨が梅毒にかかっていたという話もあります。
浪士組から外れ京に残ったのは、病気が悪くなっていたからだと。
梅毒にかかると最終的に脳や脊髄がおかされて亡くなってしまうそうですから、
もしそうだとすれば、芹沢は自暴自棄になっていたのかもしれません。
これは単なる私の想像ですけどね。

ほかには「日本人の女性はわざと化物のように醜く化粧をする」
と外国人からは酷評された白塗りの実際の効果や、
様々な種類の髪型、化粧道具の展示などがありました。

image_20130609104705.jpg
左が明るい中で見る白粉を塗った女性ですが、右のように明かりを消すと・・・
日本人形のように美しい肌が浮かび上がります!どうだまいったか!(誰に?)


あとは、鉄漿(おはぐろ)の匂い!
当時のレシピ通りに再現されたものを嗅げるのですが、
あまりの異臭に修学旅行生達が悲鳴をあげていました(笑)
ネットの感想を見ても「何日も洗っていない足の裏の匂い」とか・・・。

image_20130613141743.jpg
(左上)白粉を水に溶かし、濃さを調整した「白粉三段重」や、白粉の包み紙など。とても綺麗でカワイイ。
(右上)鉄漿(おはぐろ)道具一式。
(左下)横兵庫と呼ばれる髷。吉原の遊女が好んだそうです。
(右下)眉を書くときの位置などを詳しく説明している、お化粧マニュアル本と刷毛など。
眉のテンプレートを思い出しましたよ(笑)



そして予想外に驚いたのが「自分でミイラになってしまったお爺さん」。
名前は分からないそうなのですが、本草学の学者だったらしいです。
死後ミイラになるから「後世に機会があれば掘り出してみよ」
と家族に宣言して死んだそう。
そして後に掘り起こしてみると、ちゃんとミイラになっていたと。
実物は展示されていなかったのですが、
この方の体をCTスキャン?した映像が流れていました。
どうしてミイラになれたか・・・その方法は不明らしいのですが
体内に食べた柿の種や実がたくさん残っていたので、
それが影響しているのか、と現代では考えられているようです。



さて、次回は史跡巡りの話を・・・と思っていたのですが、
ちょうど明治大学博物館で江戸時代の刑罰について見た後、
神保町の古書店でそれにまつわる面白い本を見つけたのです。
こういう偶然の発見は興奮ものですよね~。
ようやく読み終わったので、それについて書いてみたいと思います

無駄に長く更新もゆっくりペースですが、よろしければまたお付き合いください
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