桂小五郎と池田屋事件
先日、Twitterで親しくさせて頂いているフォロワーさんから、貴重な御本をお借りしました。
どういうものかというと、昭和十一年に発行された京都は幕末の史跡を紹介した単行本で、
その名もずばり『幕末の史蹟』。
もう絶版のようで、持ち主の方もずっと昔に古書店にて入手されたとのことでした。
これが面白かったのは、一つには各事件や人物についての説明の中に
現在言われているものとは違う、または余り知られていないエピソードが
入っていることでした。
例えば、幾松が桂小五郎を新選組から匿ったという話。
京都の木屋町に「幾松」という料亭旅館があります。
こちらは桂小五郎の夫人・松子(幾松)が晩年過ごした邸跡であるといい、
「幾松の間」と呼ばれる部屋には長持ちが置いてあって、
これは、新選組が踏み込んできた時に幾松が桂小五郎をこの中に隠したものと
伝わるそうです。
その前で平然と三味線を弾いている幾松に、泣く子も黙る新選組の局長・近藤勇が
「桂がその中にいるだろう、出せ」と言うと、
幾松は「開けるなら私を斬って開けてください、しかし居なかった場合は近藤さん、
あなた腹を切ってくださいね(実際は京言葉で)」とキッと睨んだ。
その肝の座った女ぶりに、近藤は桂が居ることは分かった上で「あっぱれ幾松」と言って
引き揚げた、というお話。
実はこれは私が仕事で取材に行った際に、旅館の方から直接伺った話なのですが、
後日色々調べてみると、どうもこの旅館が桂小五郎や幾松にゆかりある場所かどうか
疑問視されていることが分かりました。
私が取材したときはHPにもこの話が書かれており、
幾松の部屋に置かれた長持ちの画像も掲載されていたのですが
今はざっくりそのページごと消されていて、幾松の部屋すら表記されていません。
ということはやはりどこからか指摘が入ったものと見えます。
さて、今回お借りした御本に、なんとこれと類似した話が掲載されていました。
桂小五郎は当時「大和屋」という旅館によく同志達と会していたが、
そこへ新選組が踏み込んできた。
慌てて彼は地下の穴蔵(長持ちではなく)に隠れます。
そして幾松は「四季の踊り」を踊って(三味線を弾いたのではなく)、
新選組にシラを切ったというストーリー。
大筋は似ていても細かいところがちょくちょく違っています。
私はそもそもこのエピソード自体、史実というより
講談などで後世に作られたような気がしています。
どうも芝居がかっていて出来すぎな気がするからです。
が。だとしても、こういったエピソードは伝言ゲームよろしく
どんどん変化していくのだなあと、実感できる興味深い発見でした。
そしてまたもう一つ、この『幕末の史蹟』の面白いところは、
既に現在は無くなってしまった碑の写真が掲載されていることです。
新選組が尊王攘夷志士たちの集まっていた旅籠を襲撃した「池田屋事件」。
ここは現在はその新選組をテーマにした居酒屋となっていて、
店前には「池田屋騒動之址」という碑が立っています。
現在この碑を見る人にとっては(長州贔屓の方でなければ)大抵それは
「新選組が名を上げた事件の跡」として捉えられているのではないでしょうか。
しかし昭和十一年当時、立てられていた碑は「池田屋受難者の碑」でした。
つまり新選組に殺された宮部鼎蔵や吉田稔麿らを悼む碑だったのです。
確かにそれはそうで、現代は新選組が人気がありますから商売上新選組の方を
(この居酒屋だけでなく京都の至る所で)押し出していますけれど、
幕末当時から長州のほうが京では人気がありましたし、池田屋自体長州の定宿でした。
そのうえ長州が新政府となったからには、池田屋跡というのは
当時、新国家に必要だった素晴らしい人材を倒された無念の場所でしかなかったわけです。
こう書くと当たり前ですが、実際に過去の碑を目にしてそれが現在と異なっているのを見ると
なかなか感慨深いものがあります。
他にもこの『幕末の史蹟』には、たくさんの面白いエピソードが満載でした。
古いガイドブックを読んでみるのも面白いものですね。
~~~~~~~~~~~~~~
更にこの七月二十一日に、池田屋事件の研究をしておられる中村武生先生の講座を
拝聴できる機会に恵まれました。
そこで先生から教えていただいた中に
「池田屋事件があった『池田屋』の場所は本当に今の碑が立つあの位置なのか」
という疑問があるというお話がありました。
なぜなら昔から碑はあるけれどもそれはきちんと検証されて立てられたものではなく
古老の記憶を頼りにした非常にいい加減なものである。
そして現在様々な雑誌に掲載されている池田屋の内部というのも
池田屋があったであろうと思われている位置にあった佐々木旅館の関係者が
おそらく昔はこうだったろうと語ったことを元に某国営放送の番組で作られたもので、
それは先生の検証によれば面していない通りに面していたりして、
実際とは大きさも違うものであるからでした。なので当然間取りも不確かなものです。
そうだろう、こうだろうのオンパレードですね(笑)
さて、実は私は以前から桂小五郎は事件の際、池田屋に居たのかどうか気になっていました。
簡単に桂小五郎の池田屋事件に関する説を言いますと二通りで、
1、当日、桂小五郎は池田屋に居り、新選組の襲撃を受けるや
すぐさま宿の屋根を伝い逃げた。
2、当日、桂小五郎は池田屋に顔を出したものの未だ浪士達が揃っておらず
懇意にしていた対州藩邸へ一旦引き上げたところへ池田屋が襲撃され、からくも難を逃れた。
になります。
中村先生は1と考えていらっしゃるとのこと。
その理由の詳細については先生が書かれた『池田屋事件の研究』を読んでいただくとして
私が気になったのは2の説を唱えられる方が1を否定する際に
「屋根を伝って逃げたというけれど、そのような立地や構造ではない」
という理由をよく言われていることです。
池田屋から対州藩邸までは近いとはいえ隣り合っているわけではなく、
かなりの跳躍を必要とするため屋根伝いというのは無理だと。
私自身、以前他の歴史好きの方からこのような説明を受けたこともあります。
しかしもし、池田屋が現在の位置でなかったり建物の構造も違っているのなら、
この「屋根から逃げられる立地、構造ではない」という主張は
なりたたなくなるのではないでしょうか。
これもまた、私にとっては大きな発見でした。
どういうものかというと、昭和十一年に発行された京都は幕末の史跡を紹介した単行本で、
その名もずばり『幕末の史蹟』。
もう絶版のようで、持ち主の方もずっと昔に古書店にて入手されたとのことでした。
これが面白かったのは、一つには各事件や人物についての説明の中に
現在言われているものとは違う、または余り知られていないエピソードが
入っていることでした。
例えば、幾松が桂小五郎を新選組から匿ったという話。
京都の木屋町に「幾松」という料亭旅館があります。
こちらは桂小五郎の夫人・松子(幾松)が晩年過ごした邸跡であるといい、
「幾松の間」と呼ばれる部屋には長持ちが置いてあって、
これは、新選組が踏み込んできた時に幾松が桂小五郎をこの中に隠したものと
伝わるそうです。
その前で平然と三味線を弾いている幾松に、泣く子も黙る新選組の局長・近藤勇が
「桂がその中にいるだろう、出せ」と言うと、
幾松は「開けるなら私を斬って開けてください、しかし居なかった場合は近藤さん、
あなた腹を切ってくださいね(実際は京言葉で)」とキッと睨んだ。
その肝の座った女ぶりに、近藤は桂が居ることは分かった上で「あっぱれ幾松」と言って
引き揚げた、というお話。
実はこれは私が仕事で取材に行った際に、旅館の方から直接伺った話なのですが、
後日色々調べてみると、どうもこの旅館が桂小五郎や幾松にゆかりある場所かどうか
疑問視されていることが分かりました。
私が取材したときはHPにもこの話が書かれており、
幾松の部屋に置かれた長持ちの画像も掲載されていたのですが
今はざっくりそのページごと消されていて、幾松の部屋すら表記されていません。
ということはやはりどこからか指摘が入ったものと見えます。
さて、今回お借りした御本に、なんとこれと類似した話が掲載されていました。
桂小五郎は当時「大和屋」という旅館によく同志達と会していたが、
そこへ新選組が踏み込んできた。
慌てて彼は地下の穴蔵(長持ちではなく)に隠れます。
そして幾松は「四季の踊り」を踊って(三味線を弾いたのではなく)、
新選組にシラを切ったというストーリー。
大筋は似ていても細かいところがちょくちょく違っています。
私はそもそもこのエピソード自体、史実というより
講談などで後世に作られたような気がしています。
どうも芝居がかっていて出来すぎな気がするからです。
が。だとしても、こういったエピソードは伝言ゲームよろしく
どんどん変化していくのだなあと、実感できる興味深い発見でした。
そしてまたもう一つ、この『幕末の史蹟』の面白いところは、
既に現在は無くなってしまった碑の写真が掲載されていることです。
新選組が尊王攘夷志士たちの集まっていた旅籠を襲撃した「池田屋事件」。
ここは現在はその新選組をテーマにした居酒屋となっていて、
店前には「池田屋騒動之址」という碑が立っています。
現在この碑を見る人にとっては(長州贔屓の方でなければ)大抵それは
「新選組が名を上げた事件の跡」として捉えられているのではないでしょうか。
しかし昭和十一年当時、立てられていた碑は「池田屋受難者の碑」でした。
つまり新選組に殺された宮部鼎蔵や吉田稔麿らを悼む碑だったのです。
確かにそれはそうで、現代は新選組が人気がありますから商売上新選組の方を
(この居酒屋だけでなく京都の至る所で)押し出していますけれど、
幕末当時から長州のほうが京では人気がありましたし、池田屋自体長州の定宿でした。
そのうえ長州が新政府となったからには、池田屋跡というのは
当時、新国家に必要だった素晴らしい人材を倒された無念の場所でしかなかったわけです。
こう書くと当たり前ですが、実際に過去の碑を目にしてそれが現在と異なっているのを見ると
なかなか感慨深いものがあります。
他にもこの『幕末の史蹟』には、たくさんの面白いエピソードが満載でした。
古いガイドブックを読んでみるのも面白いものですね。
~~~~~~~~~~~~~~
更にこの七月二十一日に、池田屋事件の研究をしておられる中村武生先生の講座を
拝聴できる機会に恵まれました。
そこで先生から教えていただいた中に
「池田屋事件があった『池田屋』の場所は本当に今の碑が立つあの位置なのか」
という疑問があるというお話がありました。
なぜなら昔から碑はあるけれどもそれはきちんと検証されて立てられたものではなく
古老の記憶を頼りにした非常にいい加減なものである。
そして現在様々な雑誌に掲載されている池田屋の内部というのも
池田屋があったであろうと思われている位置にあった佐々木旅館の関係者が
おそらく昔はこうだったろうと語ったことを元に某国営放送の番組で作られたもので、
それは先生の検証によれば面していない通りに面していたりして、
実際とは大きさも違うものであるからでした。なので当然間取りも不確かなものです。
そうだろう、こうだろうのオンパレードですね(笑)
さて、実は私は以前から桂小五郎は事件の際、池田屋に居たのかどうか気になっていました。
簡単に桂小五郎の池田屋事件に関する説を言いますと二通りで、
1、当日、桂小五郎は池田屋に居り、新選組の襲撃を受けるや
すぐさま宿の屋根を伝い逃げた。
2、当日、桂小五郎は池田屋に顔を出したものの未だ浪士達が揃っておらず
懇意にしていた対州藩邸へ一旦引き上げたところへ池田屋が襲撃され、からくも難を逃れた。
になります。
中村先生は1と考えていらっしゃるとのこと。
その理由の詳細については先生が書かれた『池田屋事件の研究』を読んでいただくとして
私が気になったのは2の説を唱えられる方が1を否定する際に
「屋根を伝って逃げたというけれど、そのような立地や構造ではない」
という理由をよく言われていることです。
池田屋から対州藩邸までは近いとはいえ隣り合っているわけではなく、
かなりの跳躍を必要とするため屋根伝いというのは無理だと。
私自身、以前他の歴史好きの方からこのような説明を受けたこともあります。
しかしもし、池田屋が現在の位置でなかったり建物の構造も違っているのなら、
この「屋根から逃げられる立地、構造ではない」という主張は
なりたたなくなるのではないでしょうか。
これもまた、私にとっては大きな発見でした。
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