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2015/07/23

『耳鼻削ぎの日本史』を読みました

『耳鼻削ぎの日本史』清水 克行著
今年(2015年)6月の発売と同時に手に入れていたのですが、このたび読了。
いかにもおどろおどろしいタイトルですが、これが実に興味深い本でした!平安時代から戦国時代にかけて、我が国で行なわれてきた「耳や鼻を削ぐ」という行為は、現代の私たちがイメージするような、猟奇的な意味あいではなかったのですね。以下、私の勝手な感想まじえつつ、紹介してみたいと思います。

◆刑罰と武功の証(あかし)だった耳鼻削ぎ◆
同書によれば、刑罰としての耳鼻削ぎには、主に「女性や僧侶への刑の軽減」としての意味があり、男なら死刑になるところを、耳や鼻を削いで放免するという形式がとられたといいます。女性の方が罪が軽くなるというのは、江戸時代の刑罰を調べていてもそうなのですが、「女性を大切にしていた」ということではなく、「女はそこまでの責任を負う能力はない」と軽んじられていたためなんですよね。同書にもその旨が書かれています。僧侶に対する場合には、神仏に仕える身を殺すことをなるべく回避したいという意識があったとのこと。

次に、武功としての耳鼻削ぎは、主に戦場で、重さや季節の問題などにより、首を持ち帰るのが困難な場合に行なわれたといいます。首級を「首験」というそうですが、「鼻験」という言葉まであったのは驚きでした。

同書には、さまざまな戦場で鼻や耳を首の代わりにした事例が掲載されています。ほとんどは、なるほど仕方ないな(?)と思うようなもので、当時の人々にとって、耳鼻削ぎがさほど残酷ではないと思われていたことが伝わってきました。

ただ豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に行なった大量の耳鼻削ぎの行為は、さすがに当時であってもいかがなものかと思ってしまうほど。これには、「その時代の感覚に寄り添うことを大切にしてきた」という著者ですら、苦言を呈しています。

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▲月岡芳年が描いた豊臣秀吉


◆意味が変わってきた、江戸時代の耳鼻削ぎ◆
さて、その耳鼻削ぎの意味が、中世の終わりと共に変化。詳しくは同書を読んでいただくとして、太平の世になったからには、武功の証としての耳鼻削ぎが必要なくなるのはもちろん、女性や僧侶の罪を軽減するという意味よりも、今度は「見せしめ」としての効果をもつようになってくるのです。

ここで面白いのは、江戸時代は藩ごとにさまざまな伝統や習慣を持っており、この耳鼻削ぎのシステムを導入していた藩とそうでなかった藩があった、さらにその意味するところも違っていた、ということ。

耳鼻削ぎをした罪人を他所へ追放せず領地内にとどめることで、同じ罪を犯す者を防ごうとする考え方や、死刑よりもさらに重い刑として、耳鼻を削いでから死刑に処す場合も見られるようになったそうです。

耳鼻削ぎシステムを採用していた藩は、秋田藩、相馬中村藩、福井藩、岡山藩、広島藩、土佐藩などですが、特に長く行なっていたのが会津藩。実は、綱吉が発令した「生類憐みの令」により厳罰主義から人命尊重主義へと文明化されるに従い、どの藩も次第に耳鼻削ぎ刑は廃止されていったのですが、会津藩は変わらず続行(※)。随分後になって時代遅れと気づいて、初めてびっくりする始末。さらに、それからも廃止までには藩内で意見が分かれ、時間がかかったというのです。

私は会津藩が長く耳鼻削ぎを行なっていたということは聞いたことがあったのですが、しかしその慣習がなぜ長引いたかという理由を今回知って驚きました。実は、この耳鼻削ぎシステムを刑罰として同藩に採用したのは、藩祖・保科正之だったのです!保科正之は密通をした男女に対して、女性は鼻削ぎ、男性はなんと「男根切り」にせよ(!)とまで定めていたといいます。

幕末、会津藩が藩祖・保科正之の遺訓をかたくなに守ったがために、火中の栗を拾うようなものだといわれた京都守護職を引き受け、後に新政府軍と徹底抗戦する羽目になったことを思うと、よくよくこの藩にとって、三代将軍・家光の異母弟であった藩祖の影響は絶大であったのだなと改めて思わずにいられません。
そして良く言えば生真面目で一徹。悪く言えば頑迷で融通が利かない藩。なんとももどかしい、うーん…。

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▲会津藩の降伏調印式を描いた錦絵

◆幕末にも現れた、耳鼻削ぎ◆
同書には、新選組の軍中法度(not局中法度)にも、「戦闘中に組頭が討ち死にすることがあれば、その場で一緒に斬り死にしろ。臆病にも逃げたりすると、斬るか鼻を削ぐぞ」という一文があることを紹介。著者は、新選組が非現実的なまでの過酷な掟に縛られた組織であったことを、当時であってもすでに前時代的であった鼻削ぎ刑を採用していたことが象徴しているといいます。

ほかにも、新選組がリンチとして実際に耳鼻削ぎを行なっていたという事例も。『佐野正敬(まさたか)手記』なる史料には、池田屋事件の直後、元治元年七月に捕えられた長州藩の密偵・渡辺九八郎が、耳鼻を削がれたうえ殺されたという記録があるのだとか。
※『佐野正敬手記』は、菊池明著『土方歳三日記(上)』にも出てくるのですが、これがどういった史料なのか、佐野正敬なる人物自体誰なのか、掲載されているものを見つけられず、ネットで検索しても出てこず、浅学の私にはまったく分かりません。ご存知の方がいらっしゃいましたら、お教えいただければ幸いです。

【↑上記の私の疑問について、ご親切にもコメントでお教えくださった方が!ありがたいことです。コメント欄をぜひご覧くださいませ。(2015年12月23日追記)】

それにしても、幕末の耳削ぎ…といえば、私が真っ先に思いつくのは、京の街で横行していたという天誅騒ぎ。これは尊攘派志士たちのテロ行為で、殺害した相手の耳や腕を切り取って、公家の邸に放りこむという乱暴な事件でした。今までは、耳を切り取るなんて随分ひどいことをするなあと思っていましたが、こうして耳鼻削ぎの歴史や意味を知ると、あれは「見せしめ」のための分かりやすいカタチだったのかな?とも思えてきました。まあ、どんな部位であれ、遺体の一部を家に投げ込まれれば迷惑千万。恐怖に震えあがることに違いはないと思いますが。(これは同書には書かれていない全くの私の想像ですので、読み流してくださいね)


まだまだ、同書には興味深い話がたくさん書かれています。
冒頭の南方熊楠と柳田国男の耳塚をめぐる論争の結果が、耳鼻削ぎの歴史の説明の後、巻末でさらに意外な方向へ…という、そのあたりの構成の妙も大変面白く感じました。
著者の清水克行さんは、NHK「タイムスクープハンター」の時代考証をされている方だそう。本の帯に躍る「まだこんなネタがあったのか!でも映像化不可能です!!」という惹句に思わず噴いてしまいました。そりゃ無理ですね!(笑)。興味をもたれた方は、ぜひ本で!

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『耳鼻削ぎの日本史』清水 克行著

<余談>
ふと思ったのですが、耳削ぎシステムの場合は、耳は2つとも切り取ってこそ一人としてカウントされ武功となるのでしょうか。片耳だけでもOKだと数がごまかせてしまいますよね…?むむ。

(※)中には耳鼻削ぎ刑を会津藩よりも長く続けた相馬中村藩の例もある。しかし、これは「見せしめ」や「刑をさらに重くする」ということではなく、当初の耳鼻削ぎの理由であった「刑の軽減」という考え方からであったとされている。

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2013/07/30

桂小五郎と池田屋事件

先日、Twitterで親しくさせて頂いているフォロワーさんから、貴重な御本をお借りしました。
どういうものかというと、昭和十一年に発行された京都は幕末の史跡を紹介した単行本で、
その名もずばり『幕末の史蹟』。
もう絶版のようで、持ち主の方もずっと昔に古書店にて入手されたとのことでした。

これが面白かったのは、一つには各事件や人物についての説明の中に
現在言われているものとは違う、または余り知られていないエピソードが
入っていることでした。

例えば、幾松が桂小五郎を新選組から匿ったという話。

京都の木屋町に「幾松」という料亭旅館があります。
こちらは桂小五郎の夫人・松子(幾松)が晩年過ごした邸跡であるといい、
「幾松の間」と呼ばれる部屋には長持ちが置いてあって、
これは、新選組が踏み込んできた時に幾松が桂小五郎をこの中に隠したものと
伝わるそうです。
その前で平然と三味線を弾いている幾松に、泣く子も黙る新選組の局長・近藤勇が
「桂がその中にいるだろう、出せ」と言うと、
幾松は「開けるなら私を斬って開けてください、しかし居なかった場合は近藤さん、
あなた腹を切ってくださいね(実際は京言葉で)」とキッと睨んだ。
その肝の座った女ぶりに、近藤は桂が居ることは分かった上で「あっぱれ幾松」と言って
引き揚げた、というお話。

実はこれは私が仕事で取材に行った際に、旅館の方から直接伺った話なのですが、
後日色々調べてみると、どうもこの旅館が桂小五郎や幾松にゆかりある場所かどうか
疑問視されていることが分かりました。
私が取材したときはHPにもこの話が書かれており、
幾松の部屋に置かれた長持ちの画像も掲載されていたのですが
今はざっくりそのページごと消されていて、幾松の部屋すら表記されていません。
ということはやはりどこからか指摘が入ったものと見えます。

さて、今回お借りした御本に、なんとこれと類似した話が掲載されていました。
桂小五郎は当時「大和屋」という旅館によく同志達と会していたが、
そこへ新選組が踏み込んできた。
慌てて彼は地下の穴蔵(長持ちではなく)に隠れます。
そして幾松は「四季の踊り」を踊って(三味線を弾いたのではなく)、
新選組にシラを切ったというストーリー。
大筋は似ていても細かいところがちょくちょく違っています。

私はそもそもこのエピソード自体、史実というより
講談などで後世に作られたような気がしています。
どうも芝居がかっていて出来すぎな気がするからです。

が。だとしても、こういったエピソードは伝言ゲームよろしく
どんどん変化していくのだなあと、実感できる興味深い発見でした。



そしてまたもう一つ、この『幕末の史蹟』の面白いところは、
既に現在は無くなってしまった碑の写真が掲載されていることです。
新選組が尊王攘夷志士たちの集まっていた旅籠を襲撃した「池田屋事件」。
ここは現在はその新選組をテーマにした居酒屋となっていて、
店前には「池田屋騒動之址」という碑が立っています。

現在この碑を見る人にとっては(長州贔屓の方でなければ)大抵それは
「新選組が名を上げた事件の跡」として捉えられているのではないでしょうか。
しかし昭和十一年当時、立てられていた碑は「池田屋受難者の碑」でした。
つまり新選組に殺された宮部鼎蔵や吉田稔麿らを悼む碑だったのです。
確かにそれはそうで、現代は新選組が人気がありますから商売上新選組の方を
(この居酒屋だけでなく京都の至る所で)押し出していますけれど、
幕末当時から長州のほうが京では人気がありましたし、池田屋自体長州の定宿でした。
そのうえ長州が新政府となったからには、池田屋跡というのは
当時、新国家に必要だった素晴らしい人材を倒された無念の場所でしかなかったわけです。

こう書くと当たり前ですが、実際に過去の碑を目にしてそれが現在と異なっているのを見ると
なかなか感慨深いものがあります。


他にもこの『幕末の史蹟』には、たくさんの面白いエピソードが満載でした。
古いガイドブックを読んでみるのも面白いものですね。



~~~~~~~~~~~~~~


更にこの七月二十一日に、池田屋事件の研究をしておられる中村武生先生の講座を
拝聴できる機会に恵まれました。
そこで先生から教えていただいた中に
「池田屋事件があった『池田屋』の場所は本当に今の碑が立つあの位置なのか」
という疑問があるというお話がありました。

なぜなら昔から碑はあるけれどもそれはきちんと検証されて立てられたものではなく
古老の記憶を頼りにした非常にいい加減なものである。
そして現在様々な雑誌に掲載されている池田屋の内部というのも
池田屋があったであろうと思われている位置にあった佐々木旅館の関係者が
おそらく昔はこうだったろうと語ったことを元に某国営放送の番組で作られたもので、
それは先生の検証によれば面していない通りに面していたりして、
実際とは大きさも違うものであるからでした。なので当然間取りも不確かなものです。
そうだろう、こうだろうのオンパレードですね(笑)

さて、実は私は以前から桂小五郎は事件の際、池田屋に居たのかどうか気になっていました。
簡単に桂小五郎の池田屋事件に関する説を言いますと二通りで、

1、当日、桂小五郎は池田屋に居り、新選組の襲撃を受けるや
  すぐさま宿の屋根を伝い逃げた。
2、当日、桂小五郎は池田屋に顔を出したものの未だ浪士達が揃っておらず
  懇意にしていた対州藩邸へ一旦引き上げたところへ池田屋が襲撃され、からくも難を逃れた。

になります。

中村先生は1と考えていらっしゃるとのこと。
その理由の詳細については先生が書かれた池田屋事件の研究を読んでいただくとして
私が気になったのは2の説を唱えられる方が1を否定する際に
「屋根を伝って逃げたというけれど、そのような立地や構造ではない」
という理由をよく言われていることです。
池田屋から対州藩邸までは近いとはいえ隣り合っているわけではなく、
かなりの跳躍を必要とするため屋根伝いというのは無理だと。
私自身、以前他の歴史好きの方からこのような説明を受けたこともあります。

しかしもし、池田屋が現在の位置でなかったり建物の構造も違っているのなら、
この「屋根から逃げられる立地、構造ではない」という主張は
なりたたなくなるのではないでしょうか。
これもまた、私にとっては大きな発見でした。




2013/06/17

【旗本は】小伝馬町牢獄実録記【大盗賊】

明治大学博物館の刑事部門で、
江戸時代の刑罰についての展示を見てきた話を前回書きましたけれど、
その翌日、神保町の古書店で偶然こんな本を見つけました。

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『幕末明治実歴譚』綿谷 雪 編(青蛙房)

ぱらぱらめくってみると「伝馬町牢屋敷」とか「白洲の吟味」とか
まさにタイムリーな言葉が並んでいます。
即購入して読んでみるとこれが実に面白い!

『幕末の武家』などと同じ青蛙房から出ているものなので、
多分知る人はとっくに知ってる、知らない人は全く知らない、
という類の本ではないかしらんと思ったので
感想がてら、紹介してみようと思います。

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●幕末の江戸で暴れまくった旗本の大悪党


この本は、元は『名家談叢』という本から、
編者である綿谷 雪という人が選んだ長編4つが入ったものです。
いずれも当人や関係者から直接聞き取りした逸事奇談ばかり。

綿谷氏は現代劇作家・中野実氏からこの貴重な『名家談叢』ほかを譲り受けたとき、
「我が物と思えば軽しか、大風呂敷を借りて、心うきうき背負って帰った」
と後書きに書いていますが、
まさに私もそんな気分で東京から関西の家までこの本を持って帰りました(笑)


さて、その四つの話の中でもとりわけ異彩を放つ「青木弥太郎懺悔録」。
本人自ら語るのは、彼の幕末から明治にかけての破天荒な思い出話です。
なんとこの青木弥太郎、小禄とは言えれっきとした旗本身分でありながら、
攘夷の為に金を出せと商家を襲う、いわゆる「御用盗」として名を馳せます。

それが悪いのなんのって・・・(笑)

最初のきっかけは、時の老中・板倉周防守に攘夷を迫ったら「金がないから無理!」
と言われたので、新徴組の村上俊五郎、石坂周蔵らと蔵前の札差の所へ行き
金や米を残らず出させ、周防守に「さぁ、どうだっ!」と見せたことだったといいます。
周防守は「いずれ評議をする」と返事したそうですが、さぞかし困ったでしょうね(笑)

その後は、次から次へと商家を襲ったり遊女屋を騙したり賭場に乗り込んだり。
最初から最後まで攘夷のためだったと青木は言うのですが、
もちろん実際はそんなことはなかったでしょう。
例えきっかけはそうであったとしても、
青木の中の悪党心に面白いほど火が付いた、という感じではなかったでしょうか。

店も遊女屋も対策として用心棒を置いたり、海千山千のはずの主人が対応したりするのですが
読んでいて笑ってしまうくらいの屁理屈やはったりでかわされてしまい、
青木はまんまと目的を果たしてゆきます。

その手口は悪党ながらあっぱれ、大胆不敵、というもので
後年脚色はあったにしろ講談になったりして人気を博したというのも頷けます。
妾である「雲霧のお辰」と呼ばれた辰の凄艶な悪女ぶりも、
物語めいた懺悔譚の魅力に花を添えます。


●十八回の拷問にも白状せず

そんなやりたい放題の青木にも年貢の納め時がやってきます。
慶応元年五月、仲間と共に捕らえられた青木は、
伝馬町牢屋敷の揚り屋(身分が高い人物が入れられる牢)へ入れられます。

地獄の沙汰も金次第。
蔓(ツル。囚人が密かに持ち込む現金の隠語)が無ければ
同じ囚人からリンチされたり、人が多いと間引かれる(!!)など、悲惨な目にあう牢屋内。
しかし青木は、身分が旗本ということ、
俗に牢屋奉行と呼ばれた石出帯刀と馬術の相弟子であったことなどから、
待遇は別格であったようです。

この牢屋についての話は実に詳細で、後世の牢獄に関する研究の貴重な史料になったろうと思われます。
彼はここで石抱きといった拷問(正確には牢問いと呼ばれ拷問の内に入らない)を受けます。
そのときの様子を画工に描かせてもいます。

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石抱きとは三角の板を繋げた算盤板の上に座らせられ、一枚五十キロの重さのある石を
何枚も乗せられる責め。足の皮肉は破れ骨で止まり、股はひしゃげて煎餅のように薄くなるという。


青木はこの石抱きのほか笞打ちなどを含め、都合十八回も拷問を受けましたが、
元より体は丈夫で胆力もあり、更に暇だからと牢内で「息術」(※1)の稽古をし始め
かえってますます元気になっていったと言います。
そのため牢内でも、またその噂を聞いた外の庶民たちにも、
青木はまるで英雄のようにもてはやされていきます。
なんだか少年漫画に出てきそうな超人ぶりですよね(笑)

そして決して白状をせず(悪事を働いていたのは明白だったのですが)、
取り調べの奉行達を歯噛みさせているうちに
悪運強いというべきか、明治元年に特赦が出て獄から解放されたのでした。


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不衛生な牢屋で残酷な責めを受けながら、また仲間達が次々と白状したり責め殺されたりする中で、
最後まで白を切り通し、その後長寿を全うしたというこのとんだ旗本男。
許しがたい犯罪者には違いないものの、どこか憎めない痛快な思いがするのは、
現代とはまた違った価値観や常識であった江戸の世の話だからかもしれません。
それとも単純に、まるで現実とは思えないびっくり仰天の話だからかも・・・?

本人自身の話とはいえ、いやそれだけに、必ずしも事実ばかりとは限らないでしょうが、
こうして当時の生の話が残っていてそれを読めるというのは、大変貴重だなと思います。
また長くなるので省きましたが、与力同心、岡っ引きらは褒美を貰うために
罪のないポッと出の田舎者に放火の罪を着せ、無理やり火計に処すこともあった、
というような賄賂弊害話の件もぞっとします。

私は古書店で千円で買いましたが、新書でも売っているようです。→
あるいは図書館などにもあるかも。
ご興味がおありの方は、ぜひ一度読んでみてください。
青木の話の他にも、天狗党の話など面白そうな話ばかりですよ。
(まだ読んでないけど・・・)

※この記事は専門家ではない一趣味人が書いたものですので、
江戸時代の牢屋や刑罰については鵜呑みにされず
正しくは直接、専門書などにあたられますように。

<参考資料>
・『歴史人 江戸の暮らし大全』(KKベストセラーズ)
・『江戸の刑罰 』石井 良助 著 (中公新書)
明治大学博物館HP内、刑事部門



※1)青木曰く、禅学に類したもので、座禅を組んで息をはかり、一日、二日の食を断ち、
昼夜これを稽古すると一週間絶食しても平常通り居られるとか。
うーん、すごい。



~~余談~~

青木弥太郎の妾、通称「雲霧のお辰」については、
同書の解説のページに詳しく出ています。
(彼女も青木と同じ時に自首して牢屋<女囚なので別の女牢部屋>に入っています)
これまた流石青木の情婦と唸ってしまうような女性です。
おそらく解説を書いた綿谷自身が彼女に魅力を感じており、
長々と追記せずにはいられなかったと見えます。

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勝海舟の『氷川清話』の中に「囚徒中の人物」という項がありますが、
これは物好きな海舟が特赦で囚人が解放される際に
囚人たちにインタビューした感想です。
ここに青木のことも出てきますが、どうやら海舟は青木が気に入らなかったようで
「どうせ盗賊するくらいなら国の半分でも盗みやがれ」と言ってます(笑)
ちなみに三十歳あまりの女囚が「安房守様だけにお話しますが、実は気に入らない男を
五人殺しました。その方法は金○を捻って・・・」と告白した話も載っていて
(ちょっと!勝さんに金○の話しちゃうなんて!!(笑)
これが青木の妾「辰」のことだ、という話をネットで見たのですが、
『幕末明治~』の解説を読むと慶応元年に辰は二十二歳で、
特赦のあったのは明治元年だから、その時に三十歳あまりと記されるのは年齢が合わないですし、
青木のことを書いたのなら、その妾として名前を載せてもいいのにな、
と思うのですが・・・。
よくわかりません。

もし詳細をご存知の方がいらっしゃれば、ご教授くださいませm(_ _)m