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2014/08/23

【輪違屋編②】日本最古の廓、京・島原へ

日本で一番古い廓(くるわ)、京・島原。
その中に一軒だけ現役のお茶屋として営業している「輪違屋」さんがあります。
容姿はもちろん、芸事、教養に秀でた極上の太夫たちを抱えて、
今もなお三百年ほど続く伝統を守っておられます。


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前回お話したのは1階(→)。今度は2階へ上がります。

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2階へ上がる階段。
のれんや照明にも「輪違屋」のロゴマークが入っていてかわいいです。


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ほかにもポストにすりガラスに、あちこちに見つけられますよ。

この階段がある場所の左手が入口になっていて、
階段の手前の小さな空間はダンスホールとしても活用されたようです。
広さはそうないので、2、3組が限界では…と思いますが。

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この階段を上って2階へあがります。昔の階段はどこもそうですが、けっこう急です。
太夫さんたちはあんな重い衣装でよく上ったなーと思いつつ。

で、2階なのですが、写真NGとのこと。
1階はOKなんですけどね…。残念っ!!

まずは階段あがって左手に、有名な「傘の間」があります。
チラシに写真が大きく出ていますので、そのチラシを掲載しておきましょう。

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この印象的な「傘の間」は、お茶屋になる前は当代の主人の部屋だったそう。

本物の道中傘を襖に張り付けたこのお部屋。
ずいぶん斬新なデザインだと思いませんか?
傘の骨部分が立体的になっていて微妙な陰影がついています。
右の傘に「髙」という文字があるのは、こちらのご主人のお名前「髙橋」さんから。
「輪違屋」では代々「髙橋善助」を名乗っていたそうです(現在は途切れているそう)。
夜の燭台の灯りの下では、さぞや幻想的に浮き上がるのでしょうね。

こちらの床の間には、なんと桂小五郎の掛け軸が掛けてありました。
1階には新選組局長・近藤勇の屏風、2階には長州藩・桂小五郎の掛け軸。
宿敵が今も同じお茶屋の上下に、お互い素知らぬ顔でいるかのようで面白いですね。
桂小五郎の文字は、かなり大胆に、墨をほとんど付け足さずに一息に書いたという感じ。
かすれまくっています。
きっと酔った勢いで、一気呵成に書きあげたんじゃないかなー?と勝手に想像してみました。

「春水二三尺 清らかに澄み 渓せいを流れる
夕日なく辺(へん)せんに 人ありて 釣りをする  松菊」


実物は漢詩ですが、ガイドさんから聞いた書き下し文をざっとメモしておいたものです。
微妙に漢字など自信ありませんが…。だいたいの意味、情景は伝わりますでしょうか。
松菊というのは、桂小五郎のペンネームですね。

そして階段を上った右手奥には「紅葉の間」
本物の葉で型をつけてから、彩色された紅葉が壁に散っています。
紅い葉だけでなく青い葉もあり、一年中楽しめる工夫がなされています。
こちらも夜の灯りがともれば、うつくしく照り映えるのでしょう。

その向かいには太夫さんが使っていたという部屋
実際に使用されていた長櫃(ながびつ)や、豪華絢爛な打掛けが飾られていました。
打掛けを見ると、ずいぶん小柄な太夫さん。
刺繍がもりもりっとあるので、とても重そう。
夏場は涼しげな柄にするそうですが、生地は変わらないので大変暑いそうですよ。
そろそろ太夫さんにもクールビズを!と思ったり思わなかったり。
(そうそう、現在は、太夫さんたちはこちらに居住されてはいません。
近辺のマンションなどにお住まいで、通いで来られているそうです)

で、面白いのは1階からの階段の上に、ミラーボールが!
キラキラ輝いて階段から降りてくる太夫さんを照らす…
というタカラヅカ方式ではなくって!
鉛色のガラス玉に人影が映るようになっているんですね。
これでお客さんや太夫さんが、都合の悪い相手とばったり鉢合わせしないようにしているわけです。
お茶屋らしい気の配り方ですね~。
このガラス玉、400年も前に作られたものだと伝えられているそうですよ。




さて、2階のレポートは以上ですが…。
今回少し心配だったのが建物が老朽化していて、2階へ大勢の人は一度に上がれなかったり、
立ち入り禁止のその先がかなり古びて見えたこと。
有形文化財に指定されているので、改築することもできず、維持も大変なようです。
文化財として貴重な建物を後世に伝えていく、
そのことは大切なことだし、こうして私もその恩恵にあずかれたわけですが、
そのためにせっかくの現役の「サロン」としての役割が果たせなくなる日が来るかもしれないと思うと
大仰な指定も痛しかゆし、難しいところですね。

それにしても貴重な経験でした。
叶わぬ夢とは知りながら、いつかお客さんとして来たいな…。
と願わずにいられません。
過去からのタイムカプセルを覗くような気分を、存分に満喫させていただきました♪






★この記事を書くにあたっては、
実際に私がガイドさんから聞いたお話や見て感じたことをもとにしつつ、
こちらの書籍も参考にさせていただきました。

『京の花街「輪違屋」物語』 髙橋利樹 著/PHP新書

現在の「輪違屋」のご当主が書かれた本です。
巻頭には今回残念ながら撮影できなかった2階のお部屋の写真もあります。
また「輪違屋」や太夫さんについて、吉原との違いや禿(かむろ)たちの可愛らしいエピソードなど
とても興味深いお話がたくさん。
もっと知りたいという方は、こちらをどうぞ♪

⇒次回は幕末、あの人の最後の晩餐の場所となった「角屋」について!

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2014/08/22

【輪違屋編①】日本最古の廓、京・島原へ

日本で最古の廓(くるわ)。
その京・島原にたった一軒だけ、現在も営業を続けているお茶屋があります。
それが浅田次郎の小説にも描かれた「輪違屋」―。


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今年2014年夏に、島原の「輪違屋」さんが期間限定で公開とのこと。
これは行かなくっちゃいけません。
同じ島原内にある「角屋」さんと合わせて、8月20日に行ってまいりました。

キャンペーンの詳細はこちら→京の夏の旅

JR丹波口から歩いて5分程度。私は逆から入ってしまいましたが、まずは島原の大門をくぐりましょう。

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かつては隆盛を極めた島原。大門が今もその名残をとどめています。
この大門は島原が出来た時は廓の東北の角にありましたが、明和3年に現在の位置に。
何度か火災で焼失し、今の大門は慶応3年に建造されたものだそうです。


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大門の横には「出口の柳」が。さらに遊女がお客さんを見送る「さらば垣」が復元されています。
お江戸の吉原にあった「見返り柳」は、この島原の「出口の柳」を模したのですね。


「輪違屋」といえば、浅田次郎の小説「輪違屋糸里」が有名です。
実際に糸里という名の女性がいたかどうかはわからないようですが、
小説の中で彼女が太夫になったときの名、「桜木太夫」という名前の大夫は実在したようです。
彼女は伊藤博文に寵愛されていましたが、伊藤が明治46年にハルピンで暗殺されると嘆き悲しみ
後に出家をしたのだとか…。

創業は元禄年間(1688~1704年)。当時の名は「養花楼」
「花」は太夫さんたちのことで、彼女たちを育てる、養う、という意味だとか。
明治初期までは彼女たちをここで居住させながら、芸事の稽古などをさせる、
いわば芸能プロダクションというような「置屋」さんでした。
(お客さんが大夫を呼んで宴会をするところは「揚屋」。
後ほどご紹介する「角屋」さんがそれにあたります)
ですから小部屋が多く、庭もこぢんまりとしています。

明治5年から置屋とお茶屋(揚屋)を始められたそうで、
現在はさらに1階の一角でバーを経営されているとのことですが、
残念ながらこちらも「一見さん」お断りだそうです。

以前は3階建てだったそうですが昭和36年の第二室戸台風で屋根が吹き飛ばされてしまい、現在の2階建てに。
また別棟に、太夫さんや芸妓さん、仲居さんたちが住み込んでいる部屋がたくさんあったそうです。
現在は1階に座敷が一室、2階に座敷が二室、そして太夫の間(大夫さんが暮らした部屋)が一室。

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1階のお座敷は書院造。お茶屋になる前まではご当主のご家族の居間として使われていたそう。
襖には歴代の太夫さんたちが書いた恋文の下書きが貼ってあります。

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一体なんと書いてあるのか、ガイドの方も分からないと仰っておられました。
しかしお客さん宛ですから「早くお逢いしたい」というような内容なのでしょう。
恋文、というよりも営業用のビジネスレター…、いやそんなことを言うと風情も何もなくなってしまいますね。


さて、こちらは明治初期までは置屋さんであったので、
それまでお客さんが直接「輪違屋」に来ることはなかったわけですが、
あちこちのお座敷に呼ばれた太夫さんたちが、当時のお客さんたちから書いてもらったという書が残されています。
ほんとうはもっとたくさんあったそうなのですが、残念ながら邪魔になるからとほとんど処分してしまったそう。
なんて勿体ない!幕末の志士、あんな人、こんな人の貴重な書があったんでしょうね~~。うう。

その中でも残っていたのが、この近藤勇の書です。

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書を屏風仕立てにし直したものですが、これまた一体どういう意味か分からず…。
戻ってから調べてみましたら、こちらのブログを発見しましたので、
参考、引用させていただきます。
→「幕末散歩
こちらによると、向かって右側はどうやら吉原と島原との違いにカルチャーショックを受けたという内容のよう。
「婦人色を好む、年季が明け16年経ち白髪が混ざっているのにここで働いている」という意味だとか。
吉原より島原のほうが折檻などもなく働きやすかったらしいです。
近藤勇ほか、江戸から来た浪士たちの面々は、さぞかし吉原との違いに面くらったことでしょう。

そして左側は、「十文字に交差した街道で内八文字で行く太夫道中を見て、
きらびやかに着飾っている様をあたかも男が鎧を着て戦い行くのと同じように、
これから戦いに行くのだな」というような意味だそうで。
※内八文字は島原の太夫の歩き方。吉原は外八文字。

一筆書いてほしいと美しい太夫さんにせがまれて、
よーしよし、と精いっぱい太夫を褒め称える漢詩を書く局長。
微笑ましいですね。
激務の中も毎夜、書の練習を怠らなかったという近藤勇ですが、さすがの筆跡です。
「浪士」と署名してあるので、会津藩のお抱えになる以前のものでしょうか。
まだ三十歳くらいでしょう。
刀を持てば裂帛(れっぱく)の気合いだったようですが、書には力強いながらもどこか優しさが感じられます。

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写真には映っていないのですが、庭にはキリシタンの模様(十字か?)を忍ばせた灯篭などがありました。
当時はご禁制でしたので、密やかなお上への反発の意味でもあったのでしょうか…。



…とりあえずすっかり長くなりましたので、2階の様子はまた次回。